野分 番外編
挑戦者たち
written by 山口ゆり
3年ぶりの母校。
空は限りなく透明に近いブルー。
高くて、雲1つなかった。
まるで水みたい。
手を伸ばしたら触れられて、波紋を描きそうなくらい。
私は顔の上に手をかざして太陽の光を閉じこめた。
*
卒業後は、エスカレーター式で系列大学に上がれるようになっていたにも関わらず広い世界に飛び出した。
誰にも何も告げずに。
だからもう、来ようと思わなければ来ないまま時は過ぎることも可能だった。
それでも私は今日、ここに来なければならなかった。
私もここから始めなければ、何も踏み出せない気がするから。
高校時代なんて、過ぎてみればあっという間。
今も昔も1日の長さは変わらないはずなのに。
普段は忘れているけれど、いつも胸の中の1番奥底、1番大切なところにあるそれは懐かしい記憶。
私にはあの頃2人の大切な人がいた。
この空の下、きっと彼らは今も頑張っているに違いない。
私がここまで来られたのも、2人のおかげ。
魚のように泳いでいた彼女。
そして、その意志を受け継いで今もどこかの水の中に生きる彼。
どこからか、遠くから運動部かなんかの掛け声が聞こえてくる。
歩いたまま目を閉じると、まるでタイムスリップでもしたかのように思い出が駆け巡る。ここにも、あそこにも。
聞こえる蝉の声も、じんわりとかく汗も、それだけで胸をいっぱいにした。
3年間通った場所。彼女と私と彼が、雨の日も風の日も泳ぎ続けたその場所。
グラウンドのフェンスが切れたその先に目にしたもの。
私は思わず駆け出していた。
・・・だって。
世界が止まる。
いるはずがない。でも見間違うはずがない。
その1歩がもどかしくて仕方なかった。
走って、つまづきそうになって、そして辿り着く。
ガラス越しの窓に手を付いて、目を凝らした。
水しぶきを上げて腕をしならせるその姿は、先輩その人だった。
私はずっと窓の外からその泳ぎを見ていた。
あの頃とは力強さが違う。
心なしか肩甲骨のあたりの筋肉が更に付いたような気がする。
水を縫うように鮮やか。
弾ける飛沫が綺麗。
息が出来ない。目が逸らせない。
この泳ぎをどこかで見たことがある。
そう。それはまるで、先輩の身体を使って彼女が泳いでいるようだった。
途端に胸が苦しくなる。
―――先輩は先輩のままだった。
私は窓に手を付いたまま、動けなかった。
ざばん、とその人が勢い良く水から上がる。
ふとこちらを見て、目が合った。
ちょっと目が見開かれる。
でもそれは気のせいかもしれない。
先輩はそのまま一度ベンチに向かい、何事もなかったようにタオルを手に持った。
気付かれていなかったと、少し安心している自分がいた。
思わず目を伏せる。
それでもまだ、動けない。胸に手を当てる。深呼吸をした。
たぶんあの頃に抱えていた気持ちがうっかり蓋を開けられて逆流している。
まだ上手く息が出来ない。
そんな風になるのも、あの頃以来。
ぎい、と少し離れたところにあるドアが開いた。
私はその音に気付いてやっと目を開ける。
結局1歩も動けなかった。
「・・・稲葉」
気付かれていた。
やっぱり間違いなかった。
その声も、尾崎弘明、その人。
思わず足元が震える。
でも本当は、心のどこかでここに来れば先輩に逢えるかもしれないと思っていた。
「お久しぶり、です」
「・・・うん」
外に出てきた先輩は、パーカーを羽織って首に先ほどのタオルを巻いていた。
うん、確実に身体が一回り大きくなっている。
肘までめくり上げられたパーカーの袖。
ぬっと伸びた黒くない腕。
首元に滴り落ちる水滴。
私はその顔を見られなかった。
確かにここにいるのは先輩で、私だけれど。
もうあの頃の先輩じゃない。
今や先輩はこの国中の誰かの期待を、そして彼女の夢を背負って世界に羽ばたこうとしているスイマーだ。
私はあの頃と変わっただろうか。
・・・怖かった。
沈黙が重い。見つめられているような気がする。
「いつも・・・ここで?」
「ああ、うん、やっぱりどうしてもね」
「・・・そうですか」
分かる気がする。先輩のあの泳ぎを見れば。
だって先輩の原点は、きっと彼女だから。
彼女が果たせなかった夢を、先輩が人知れず果たそうとしているのだ。
あの頃彼女が泳ぎ続けたこの場所で練習している先輩。
どんなに逞しくなっても、先輩は先輩なんだと思った。
「美希と友成くん、元気ですか?」
「え?お前2人に会ってないのか?」
「はい・・・最近忙しくて」
「あいつらは元気だよ。少なくともこないだ会ったときは元気だった」
「そうですか、良かった」
ホッとする。
彼女たちはもう、次の夢に向かって歩いているのだろう。
「稲葉は?」
「ああ、えっと、このとおり元気ですよ。それに明日から留学します」
「・・・留学?」
「?・・・はい」
先輩の顔が少し変わる。その理由は分からないけれど。
「ちょっと話さないか?」
真っ直ぐに私を見る瞳。
私には、その言葉を断る理由がなかった。
*
学内の食堂。
2年ぶりに足を踏み入れると、そこはまるで別世界。
大学のそれと同じような光を取り入れた明るい作りに変身していた。
私は何だかどこか知らないところに来てしまったかのような気分で落ち着かない。
きょろきょろしていると、先輩が氷入りのアイスコーヒーを奢ってくれた。
「久しぶりだな、ホント」
「・・・そうですね」
そうとしか答えられなくて俯く。
手持ち無沙汰で何度もコーヒーに口を付ける。
実はあんまり得意じゃない。
広がる苦味に顔を顰めそうになる。
先輩はそれを話の内容に私が不快になったのだと思ったのだろう、氷を口に含んでがりがりと噛み砕く。
本当にさっきから、沈黙が痛すぎる。
どうしてだろう。
あの頃、どうやって話していたっけ。思い出してみる。
・・・ああ、あの頃は美希の話ばかりしていたから。
だから、か。
私はゆっくりと先輩を見つめ返した。
人もまばらな7月の食堂。
「先輩、」
「ん?」
「おめでとうございます、代表」
「ああ、うん、ありがと」
「すごいですね、私ビックリしちゃいました」
何とか明るくしようとそんな話題を振る。
先輩はテーブルに肘をついて、それでも真っ直ぐにこっちを見ている。
忘れていた胸の痛み。
あの頃、こんな風に見つめられたことあったっけ?
頭がまとまらなくて、思い出せないでいる。
その視線に気付かない振りをして、とにかく努めて明るく振舞う。
せめてあの頃と変わらない私でありたい。
「メダル取れたら1番に見せてやるよ」
え・・・?
真っ直ぐな瞳は変わらなくて。
突然降りかかったその言葉に私は戸惑いを隠せない。
「あ、はは、そんなー。すごい自信。そんなこと言うと期待しちゃいますよ?」
「いいよ」
挑むような目つき。
いいよって。そんな顔していいよって言う。
どうして?どうしてそんなこと言うの?
距離感が掴めない。
私がおかしいの?
久しぶりすぎて普通に出来ない。
先輩はこんな人だった・・・?
「今はそのために泳いでるから」
コップの中の氷が少し融ける。コト、と音を立てて崩れた。
私は目を見開いたまま、動けない。言葉も紡げない。
先輩はふ、と顔を崩して目を伏せた。
「留学って、どこ行くの」
「え・・・と、オーストラリア、です・・・」
「そっか。今あっちは冬だな」
「そ、ですね」
「稲葉も頑張ってるんだ」
「・・・はい・・・」
私も頑張っていると、認めてくれるこの人の声。
ふいに泣きそうになった。言ってしまいたくなった。
3年経って忘れたと思っていたこの想いは、間違いなくまだ恋のまま私の中に棲み付いていた。
胸がぎゅうっとする。
「・・・なぁ稲葉」
目を上げる。そして、合う。
「俺、ずっとお前にお礼が言いたかった。ずっと・・・逢いたかった」
その瞳が私を貫く。
美希の泳ぎを思い出す。
この目は、彼女と同じ輝きを放っていた。
最初から知っていた。私と先輩が出逢ったその時にはもうすでに、その瞳の中には彼女しか映っていなかったことを。
いつもいつも、愛しそうに、そして時折切なそうに彼女を見つめていた。
そして今、その瞳が私に向いている。
これがもし夢だとしても、これほどうれしいことはなかった。
でも。
「俺はお前のことが―――」
咄嗟に目の前の柔らかな唇に触れて、軽く押さえた。
先輩が驚いたように言葉を失くす。
「・・・今はまだ、言わないで」
まだ、無理。
先輩や、美希や松本くんと同じスタートラインに立ちたいの。
そうじゃなきゃ、私にとってのこの3年間は意味がない。
彼女にとってあの日々が生きている証だったように、私も生きているって感じたい。精一杯頑張りたい。
じゃないと、あんな風に泳ぐ先輩のそばまで辿り着けない。
自分の腕で、きちんと横に並びたいから。
だから、待って。
お願い。
先輩の口に触れていた指が小刻みに震える。
先輩がその両手をやんわりと包んで、どかした。
見つめ合ったまま。
「・・・分かった。待つ。でも、」
包み込むその手に力が篭る。
「帰ってきたら、そのときは言うぞ」
「うん・・・」
伏せた瞼に、そっと机越しに近づいた先輩の優しいぬくもりが落とされた。
*
夏本番は、もうすぐ。
私たちの挑戦は、これから始まる。
| | | Copyright (c) 2004 Yuri Yamaguchi All rights reserved. | | |
| 本編情報 |
| 作品名 |
野分
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| 作者名 |
山口ゆり
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| 掲載サイト |
明鏡止水
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| 注意事項 |
年齢制限なし
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性別注意事項なし
/
表現注意事項なし
/
完結
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| 紹介 |
誰にでも、輝く場所があるはず。
それを見つけたい。
この手で掴みたい。
夢を諦めたくない。
見つめ合うより、ずっと大切なことがある―――。
本編は、切ないくらいにひたむきに夢に向かって生きる彼らの友人たちのお話です。
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