ever after
「あきな先生お疲れですか?」
「え?」
「何かちょっとお顔がむくんでるかなって。・・・あ、すいません、失礼なこと言っちゃって」
仲のいい看護士のミクニちゃんとご飯を食べていたときのこと。
そんな風に言われた。
そうかな、気がつかなかった。水分の摂り過ぎかも。
そんな風に笑って返したけれど、どこまでごまかせていただろう。
医局に戻ると鏡を覗き込む。
それに映る、むくみ気味の自分の顔をそっとさすった。
*
妊娠していると分かったのはもう半年も前のこと。
そんなつもりは全然なかったし、初めは呆然としていたけれど、でも後からじわじわと嬉しさが込み上げた。
だって、まさか私が誰かのお母さんになるなんて。
いつだって自分のことだけで精一杯で、考えたこともなかった。
恭平さんに初めて打ち明けたときもそれは驚かれた。
握っていたお箸を思わず落としてしまうくらいに呆然と私を見つめていたその顔を、今でもよく憶えている。
パパやママにもすごく喜ばれた。
もちろんもう康兄にも涼介にも子供はいるけれど、だいぶ大きくなっているからまた小さい子の面倒が見られる、と言って保育士をしていたママは嬉しそうに笑った。
そして私と恭平さんは、お互い仕事を持っているからとパパとママの家、すなわち私の実家に住むことにして、子供が生まれてもちゃんと面倒が見られるようにみんなが体制を整えてくれた。
でも、心の中に何となく生まれたもやもや。
もちろん生まれてくる赤ちゃんが嫌だとか、そんなわけはないけれど。
お母さんになることについて、私自身は本当に覚悟が出来ているのか。
毎日病院で会うたくさんの命を思い出すと、どうしてもまるで雲を掴むような、そんな不安な気持ちになった。
「あきな?」
「・・・え、何?何か言った?」
「今日大変だったのか?ボーッとして」
「ううん、大丈夫」
私は笑顔を見せた。笑うとこめかみの辺りがやっぱり少し張ってるような気がした。
恭平さんが帰ってきて、2人で遅めの夕食。
とは言っても私はもう何時間も前に自分の分は済ませてるから、小皿に取り分けた小魚をぽりぽりと。
それは恭平さんが貧血気味だった私の体を心配して、いつしか常備されるようになっていたもの。
2人とも医者だから、すれ違おうと思えばどこまでも交差した生活を送ることも可能な私たち。
でも恭平さんはそうはしない。出来るだけ一緒にいようとしてくれる。こうして。
その優しさの海の中に、私はいつも包み込まれているんだ。
出会った頃からずっとそう。
わがままな私を、そのままでいいってまるで真綿にくるむように大切にしてくれた。
でも時折、それで良いのかなって思う。
恭平さんは笑って「自分がそうしたいから」と言ってくれたけれど、それは本当はとても恭平さんの負担になってるんじゃないかって。
でもあの笑顔の前では何も言えない。これ以上わがままな私にはなりたくなかった。
「検診は?いつだっけ」
「えーと、明後日かな」
「晴洋の奴に良く言っとくよ。何か身重の体にいいビタミン処方してくれって」
「ありがと」
そう言うと恭平さんは笑った。
「あと、無理なこととか絶対しないでくれよ。ちょっとくらい休んだって大丈夫なんだぞ?なー、ベイビー」
「やだ、何それ」
「だってまだ名前付けてないから」
机の反対側から手を伸ばして私のお腹に当てながら、真面目な顔してそんなこと言う彼に、思わず笑ってしまう。
どうか、このままで、いつまでも。
心のどこかが切実にそう願っていた。
*
「あきちゃん先生、お腹イタイイタイ?」
「大丈夫よ、のんちゃん」
そろそろ病棟に出るのも少し控えた方がいいかもしれない。
受け持っている小さな子たちにも大きく出始めたお腹を見て心配される始末。
私はパジャマ姿のみんなに手を振って病室を出た。
今日は朝から両手がむくんで少し手首が痛い。カルテを持つのが億劫だった。
ここのスタッフの人たちはみんな本当に優しい。
帰る前に入江先生のところで検診を受けると言ってあったから、忙しくても誰もが快く送り出してくれた。
妊娠が分かってからは、夜勤もなくしてもらった。
具合が良くないと聞けば、それほど酷くなくても休ませてもらえる。
私のマタニティライフは、とても恵まれていると思う。
「こんにちは」
「よぉ、あきなちゃん。入って入って」
「はい」
笑ってしまいそうになるくらいハイテンションなこの人は、恭平さんと同期の産科の先生で入江晴洋さん。
少し伸びた髪を後ろで無造作にまとめて白衣を着ている姿は、医者というよりも美術教師みたい。そう言ったら恭平さんが大ウケしてた。まさにそれだ、って。
入江先生は、それなら恭平さんは生徒に全然人気のない化学教師だろ、なんて言う。
そうやって笑い合っている2人はかなり仲がいいみたい。何でも医大生時代からのお付き合いらしい。
恭平さんてば、「診察中にセクハラされたらすぐ俺に訴えろよ」だって。
「最近顔とか手とか、結構よくむくんだりする?」
淡々と診察を終えると、入江先生はそう訊いてきた。
「え?あ、うーん、そう言われてみればそうかもしれないです」
ぎくっとした。
でも、曖昧に返事をする。
「じゃあ血圧計ってみよっか」
しゅ、しゅ、しゅ、と腕が圧迫されてぷしゅーっと空気が抜けていく。
今時だけど、入江先生曰く手動がいいんだそうだ。
「ちょっと高いな」
「・・・そうですね」
それから尿を取ってNST受けて。
心配ないよ、と相変わらずの優しい顔が立ち上がった私を見送ってくれたけれど、こういうとき職業が医者って嫌だな。
・・・やっぱりね。
思いっきり今の私、妊娠中毒症じゃないの。
*
その日、恭平さんは当直で帰ってはこなかった。
下の階に降りればママがいる。
けれど、私はそのまま1人で夜を越えた。
*
「あきちゃん?」
目が覚めたら、そこは自宅のリビングではなかった。
「あれ・・・ママ?」
「良かった、大丈夫?痛いところとか苦しいところとかない?」
「え、うん」
「じゃあ、先生呼んでくるからちょっと待ってて」
そう言い残してママは部屋から出て行った。
どうやら私は病院のベッドで寝ているらしかった。
周りを見渡すと、うすいクリーム色の壁とレースのカーテン。
このインテリアからすると、ここは産科の病棟だろう。
目をつぶって深く息を吸う。細く吐く。
しばらくそのまま横たわっていた。
そのうち、ぱたぱたとスリッパの音が不揃いに近付いてきて、がらりとドアが開いた。
視線をやると、入江先生とママと・・・白衣姿の恭平さん。
「大丈夫?あきなちゃん」
入江先生が聴診器を耳に当てながらママと同じ事を訊く。
私はこくりと頷いた。
しんとした室内。診察だけが淡々と続いていった。
私は診察の間中ずっと目をつぶっていた。恭平さんに合わせる顔がなくて。
あんなに優しくしてくれたのに。
あんなに気を遣ってくれてたのに。
それなのに、私はと言えばこんなところで寝ている。
自分の不甲斐なさに、悔しくて涙が零れてしまいそうだった。
そして、一通り診察が終わると入江先生がふぅ、と溜め息をついて明日以降手術することになることを教えてくれた。
目を開けて、恭平さんの顔を見る。
・・・すごく怒っている。
「・・・ごめんなさい」
「何で俺が怒ってるか分かってる?」
「ごめんなさい」
ごめんなさいと言うことしか出来なかった。
それ以外に出てくるような言葉は、全て言い訳になってしまいそうで。
「分かってない。全然分かってないよ、あきなは」
溜め息混じりで呟かれたその言葉は、私の胸を貫いた。
彼がこんなに声を荒げているのは、出会ってから初めてかもしれない。
わがままばかりで振り回し続けて、その結果呆れられるなんて、本当に私って。
こんなママじゃ不安だよね。
ごめんね苦しめて。
ママはパパのことも幸せにしてあげられてない。
もう一度ごめんなさいと呟くと、目尻を温かい涙が通り過ぎた。
「何で言わないかなぁ」
恭平さんがぎぃっと近くにあった椅子をたぐり寄せて腰掛ける。
声色がいつも通りの凪いだものに戻っている。
恐る恐る顔を上げると、昔から知っている恭平さんの優しい表情が見えた。
「三國さんから聞いたけど、最近元気なかったんだって?」
「え?」
「辛いなら言ってくれれば良かったんだよ。何で言わないの」
「あの・・・」
ふっ、て恭平さんは小さく息をついた。
わけが分からなくて、じっと恭平さんのその顔を見ていた。
ぎゅっと眉根を寄せて、それからゆっくり眉間に入れた力を抜いていくのが分かる。
「君はちょっと強すぎるよ」
布団から少し出ていた私の手を、温かい恭平さんの手が包み込んだ。
「・・・って俺が気付いてやれなかったのがいけないんだけどさ」
恭平さんの苦笑いに、入江先生が診療道具を看護士さんに渡しながらそうそう、と頷く。
恭平さんの手は、私の手の甲を優しく撫でていた。
「無理しなくていい。辛いなら言っていい。もう君1人の体じゃないんだから。俺はいつでも君の隣にいるし」
私に優しく笑いかける私の旦那様。
見つめ続けていたら、涙が溢れた。
*
怖かった。
私みたいな未熟な人間が、新しい命を身に宿している現実。
未熟だから、恭平さんはいつも私のそばにいなくちゃいけなくて、それは私の知らないところで恭平さんに迷惑をかけているのかもしれない。
未熟だから、救えるはずの子供たちが今もまだ病棟で泣いている毎日。
そんなことを延々と考えていたら、怖くて怖くてたまらなかった。
私には母親になる資格なんてないのかもしれない。
不安になってばかりで、自分のことでいっぱいになって。
でもそうやって考えていることこそが自己中心的な考え方だったんだ。
「何度も言ってるだろ?俺は自分の意志で君の隣にいるって」
「うん」
「夜勤なくしたって、病棟の方は何とかなってただろ?」
「うん」
「みんな子供が出来たって言ったとき喜んでくれただろ?」
「うん・・・」
手術室に入る間際、恭平さんは私の前髪に手を伸ばして撫でた。
そう。
私は自分で何でもしようって思いこんでた。
どうにかしなくちゃ、何とかしなくちゃ、って。
でも、周りにはパパもママも、先生方もミクニちゃんたち看護士さんたちもみんないてくれた。
隣には最強のパートナーだっていてくれたのに。
自分に出来ない部分を認められないがために、1人でみんなを振り回してたなんて。
「わがままばっかり、ごめんなさい」
「いいよ、慣れてるし」
そう言って笑った恭平さんの言葉が、ずっと昔に愛した人を思い出させる。
そうだ、私には大事な使命があった。
ずっと肩肘張ってばかりでごめんなさい。
「それに、わがまま姫と、その相手の王子の結末は決まってるんだよ」
「?」
「『それから2人は幸せに暮らしましたとさ』」
「お前のどこが王子なんだよ。どう見ても召使いだろ」
頭の向こうで入江先生の声が聞こえて、心の底から笑った。
ねぇ、おなかの中にいる私の赤ちゃん。
元気で生まれてきてね。
ママは未熟だけど、一生懸命生きてくよ。
そのために、こうして生まれてきたんだもの。
あなたの命も、同じだから。
だから、一緒に生きていこうね。
Copyright (C) 2003- 明鏡止水 All rights reserved.